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伊織 椒のブログ(仮)

日々の生活、喜びと悲しみ、特別な出会い、ちょっとした考えや思いつきを書き残すもの。

『映画 聲の形』感想

私の心が望んでいたかのような映画でした。生涯最高級の作品になるかもしれません。

原作の単行本全巻と『公式ファンブック』を買い揃えてありますが、第1巻以外はまだ読んでいません。それらを読み進めれば『映画 聲の形』単体への感想を記すことが難しくなると考えて、この文章を書き終えるまでの封印を決断しました。

以下、作品の内容に言及します。

ディスコミュニケーションがもたらす希望

他者との意思疎通以前に、自らの在り方の認識すら困難なのが人間です。そして、自分のことすらよくわからないならば、〈わからない〉ことを理由として人間を赦さない生き方とは、自滅へ至る道理です。

他者から向けられる好意ですら、その正体は誰にもわかりません。これは恐ろしいことです。向けられる好意の基に蒙昧や誤解があるとわかれば、どうしても危うさを感じます。場合によっては拒否したくもなります。

しかし、人間は各々の枠組みから逸脱することはできません。あらゆる感情の基には蒙昧や偏見が必ずあると言っても過言ではないでしょう。だから、ある程度の危うさや脆さを許容する生き方が必要になります。自らの価値を認められないからと向けられる好意を否定し続ければ、死ぬしかありません。そもそも、自らの認識の方に不備がある可能性もあります。どちらかだけが正しい、もしくは誤っているということはなく、それぞれが固有の偏りや誤りに囚われ続けているに過ぎないのです。だからこそ、人間が不出来である限りは、向けられる好意に案外価値があったり、向けられた敵意が案外深刻ではなかったりする可能性を、生きるための希望にしていけるのではないかと思います。それは積極的な希望ではないのかもしれませんが、大切な希望ではあります。私は、作品からそうした価値観を見出しました。

「自分は死ななければならない人間ではない」と思えるようになるまでの物語の描き方

要するにそういう物語だったと思います。「自分は死ななければならない人間ではない」という心境に至るまでの心の痛みの繊細かつ複雑な推移が丁寧に描かれており、安易な自己肯定をもたらすような作品にはなっていないと感じました。とても厳しい作品ですが、だからこそ、今の自分と寄り添わせられる、そして好きになれる作品でしたし、きっと今後も永く愛していけるような気がしています。

そして、物語とは表現と不可分なものです。苛酷な出来事の連続を徹底的に美しい表現で描いたことこそが、『映画 聲の形』の最も重要な特徴だと私は考えています。官能性能の高さによって過酷なだけの作品にしないバランス感覚は快く、しかしそれは優しいだけの表現ではないとも感じました。

特に、現実を基にしつつもアニメーションならではの麗しさを徹底した風景の描写は、とても強く印象に残っています。世界の美しさが個々人の状況とは関係無く在るという希望を示しつつ、世界と個々人の心はあくまで断絶されたものであること、つまり世界が個々人に自動的に寄り添うことはないことの示唆としても成立していると思います。多義的かつ雄弁な風景だと感じました。

もちろん人間の描写も素晴らしかったです。仕草による感情の表出を見事に描き続けるアニメーションの技巧に驚きましたし、女性の美しさや愛らしさにも惹きつけられました。京都アニメーションらしい職人芸的作画は、眺めているだけでも凄まじい多幸感がありました。涙がほのかにパステルカラーになるなどの工夫に満ちた色彩設計も素敵でしたし、音についても、終始主張し過ぎず、しかし美しいと感じられる微妙な均衡が保たれていて、終始とても心地よかったです。

具体的なこと

本来は作品を確認しつつ語りたいのですが、まだソフトが発売されておらず、再鑑賞もできずにいるので、気に入っている要素について、断片的な記憶に基づいて箇条書き的に語っていきます。

パンと隣人

キリスト教に基づく隠喩が豊富な作品でしたが(西宮家のしそジュースはワインの代わりでしょう)、美味しいパンを川の鯉へ与え続ける将也達の姿は特に印象的でした。各々の不器用さはもちろん、読み方によって様々な意味を見い出せそうな要素です。

永束君

快い人物でした。とても立派です。しかしそんな永束君も、出会い方が違っていれば将也への振る舞いは違っていたのではないでしょうか? 私は、彼の友情もまた無知や孤独感によって成立したものなのだろうと解釈しています。ただし、それは関係が貶められる理由にはなり得ないとも思います。知る必要が無い罪も、下す必要が無い罰もあります。無知故の罪を罰し続けつつ、無知故の好意を頑なに退け続ける生き方は、割に合いませんから。

赤い補聴器

まず装飾としてとても綺麗で、ぞくりとしました。しかし美しいだけではなく、血や傷、そして赤信号(明示こそされませんが、物語の推移や硝子の祖母の反応を見るに、硝子の僅かな聴覚は更に衰えつつあるのでしょう)の隠喩として成立するものでもあり、硝子の意図も秘められたままです。これもまた作品の在り方が端的に表れているかのような要素だと思います。もっとも、かつて右耳を傷付けた将也への当てつけということは流石にないでしょうが。

島田

転落した将也を助けてくれたとのことですが、見殺しにするほどの憎しみがなかったのか、憎しみ故に敢えて見殺しにしなかったのかはわかりません。作中の彼らなら、再び会って意思を確かめ合うこともあるのかもしれませんが、少なくとも観客としては知り得ないことです。メタ的な要素も含めてディスコミュニケーションを表現することへの徹底ぶりが凄まじい作品なので、こうした想像や解釈の余地が無数にあって面白いです。観る度に印象が大きく変わりそうな気がします。

母親同士の関係の変化

八重子が美也子に散髪を任せる場面は、全編通しても特に好きな場面です。散髪は様々な意味で命を委ねる行為ですし、自らの形(自分では把握しきれないもの)の改変を他者に委ねる行為でもあります。最初はピアスを引きちぎるような暴力沙汰(これも明示はされませんが、それ以外の可能性は考え難いかと思います)にまで発展していた2人の関係がここまで進展したことだけでも凄まじいのですが、八重子の新しい髪型が小学生の頃の硝子に似ていることも興味深いです。母親同士も子供達のように新しい関係や未来へ進んでいくのでしょう。ちなみに、パンフレットにこの場面の写真が載っていて驚きました。かなり核心的な場面だと思うのですが、よかったのでしょうか……? 

植野の手話

"実は植野の手話は間違っていて『ハ、カ』になっちゃっているんです。濁点は手をスライドさせるんですが、それを硝子が教えてあげて、結果、植野に『バカ』って言ってしまっているような感じなんです"

natalie.mu

 善意とディスコミュニケーションと調和、そして物語の縮図(死を否定しつつ、愚かな命を束ねてどうにか生きていく)が重なった一瞬でした。世に傑作は数あれど、ここまで見事な重ね合わせは滅多に拝めないのではないでしょうか?

感情

あらゆる愛情は、紐解いてみせれば、好意、無知、責任感、罪悪感、そして本能が、当人も自覚できないような混沌を成した果てのものなのではないかと、常々思っています。愛情以外の感情も概ね似た構造だと思います。将也と硝子が互いに対して抱いている感情も混沌としているはずです。いつか誰かが何かに気付いて、褪めてしまうのかもしれません。それでも、得体の知れない感情を愛してあげられたなら、それはどんなに幸せなことだろうと、私は思うのです。