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伊織 椒のブログ(仮)

日々の生活、喜びと悲しみ、特別な出会い、ちょっとした考えや思いつきを書き残すもの。

『シンデレラガールズ』シリーズにおいてユーザーが行えるプロデュースに対する私の認識

すなわち、『シンデレラガールズ』シリーズという特殊なゲームを私がどのように認識、プレイしているかについてです。

シンデレラガールズ』シリーズのアイドルは、断片的な情報の集積によって成立している存在です。そして、各アイドルを成立させている情報の多くは、連続性や順序を保証されていません。同一作品内の同一カードにおける複数の台詞であっても、互いの順序などを保証する要素はほぼありません。したがって、『シンデレラガールズ』において各ユーザーが認識しているアイドルとは、複数の断片的情報がモンタージュ的に接続されて発生した無意識的かつ主観的な偶像です。

また、ユーザーにはプロデューサーという役割が与えられていますが、基本的には、アイドルの衣装も歌もユニット編成も、作中の登場人物であるプロデューサー(メタ的にはシリーズの制作者)によって定められます。ユーザーが歌や踊りといったアイドルの仕事に直接干渉できる機会には、『jewelries!』シリーズの楽曲公募や、『スターライトステージ』におけるLIVEユニット編成などがありますが、用意されたプログラムの中で行えるプロデュース行為の自由度は、依然高いとは言い難いでしょう。そして、作中のプロデューサーは、ユーザーがアイドルに対して行いたくない判断や振る舞いを行い得る存在でもあります(例:作中で”過保護”である可能性を指摘された南条光担当プロデューサー)。ユーザーに与えられたプロデューサーという役割について、各ゲーム作品中の登場人物であるプロデューサーとユーザーである自らを同一視するものだと解釈すると、作中のプロデューサーの振る舞いと自らの意志の間に齟齬が生じます。

しかし、シリーズの各作品によって提示される断片的な情報群を材料として、用意されたプログラムの外部で解釈および創作する行為(厳密には、解釈という行為も1種の創作だと私は考えています)をプロデュースの範囲に含めるならば、ユーザーは各アイドルを自由にプロデュースできることになります。そして、『シンデレラガールズ』を〈ユーザーがプロデューサーという役割に基いていずれかのアイドルをプロデュースするゲーム〉とするならば、『シンデレラガールズ』は〈ユーザーが断片的な情報群を用いてアイドルの解釈を行うゲーム〉だということになります。それは、シリーズ全体の情報が集積されて構成される1つの巨大なゲームでもあります。

ちなみに、『スターライトステージ』の稼働開始以降は、複数の情報の連続性などが認められないことへの言及が増えた印象があります。しかし、Mobage版の時点から、複数の情報の連続性や順序を保証する要素は希少でした。Mobage原理主義的な意見をしばしば観測しますが、Mobage版から続く情報の不連続性や断片性を適切に認識していないことによる誤った言説でしかないと思います。少なくとも、イラスト関係に限ってもトレスや無断引用などの問題が存在していた初期のMobage版で公開された諸情報よりは、現在のMobage版を含む各作品における後発の諸情報の方が注意深く丁寧に制作されていると考えるのが妥当ではないでしょうか? この文章を公開した動機には、そうした言説への反駁の意図もあります。